神道のアップデートってできないんでしょうか?

なんか靖国問題について長ーく論義されてますけど、

一度合祀された霊魂は、取り出して分祀はできない

という、ちょー宗教的な部分が前提とされてますけど、みなさんここに疑問を持ちませんか?

 

「祀られた御霊体は水になっているから〜」とか「日本人は亡くなればみんな仏様になる〜」とか、そういう宗教的な考え方によって、靖国問題が総理大臣の公私とか経済問題とかに飛んでしまうのは、なんだか醒めてしまうんですけど。。

イスラム系過激派の女性の社会進出に対する考え方が国際的に見ると歪んでいるように、この「霊魂の合祀」という考え方が国際的に見て歪んでいるなら、その考え方を更新すればいいんじゃ。。。

 

御霊体の形態とか合祀とか、そんなの全て作り出された「考え方」なんだから、また新しいの作ればいいのに。

 

靖国神社宮司さんが「A級戦犯の霊魂の分祀に成功しました!」とか発表したら、歴史に残ると思うんですよね。いや、真剣に。

 

俺の言うことを信じるな(、と言う俺のことを信じろ)。

 

マスコミの報道を信じてはいけません。そして、私の言うことすらも疑ってください(、と言う私の言葉を信じなさい)。

 

原発事故直後から、疑惑の残るマスコミ報道と対照化を図ろうとして、このような発言をする「ジャーナリスト」が結構現れたと思います。

 

ただ、この発言、ジャーナリストの発言として、どうなんでしょうね。

何かに対して賛否どちらかの明確な立場をとって主張をすることは、特に情報の公開が制限されていたり、歴史が浅く先の展開が読めなかったりする事項・問題においては、とてもリスキーなことだと思います。

そのような状況にあって、「賛否の決断を下し得ない」と言うことは、とても正直だと感じます。賛否両方の立場からの見解に試みることも、真面目な姿勢だなと見受けるでしょう。

また、正誤に関わらず、賛否どちらかの立場を表明し意見を述べることも、ある種誠実な態度と言えるのではないでしょうか。間違っているにしろ、強い逆風に向かって声を上げるということは、とてつもない熱量を必要とするはずです。

 

一方で、発生している問題ではなく、その問題にまつわる情報の信憑性を批判することは、上述のような態度と性質が異なるのではないでしょうか。

 

溢れるほどの情報の中には宝のような情報からゴミのようなものまであります。また。このご時世においても、原発事故の時のように1次情報に欠ける事態が起きることもあるのです。

そんな中で、必要とされることは、「主張すること」ではないでしょうか。

限られた情報の中で立場を決めて主張すること。情報が不十分で明確な立場を決められない、という主張すること。これらは、後に正誤がはっきりするし、誤っていたとしても主張に至った経緯を知ることは大切なのではないかと思います。

しかしながら、報道を信じず、相手の主張を信じるな(、と言う俺を信じろ)という主張(?)は、有益なことを残すでしょうか?残すのは「みんな知らないみたいだけど、俺は知っている」と幻想する陰謀論者くらいでしょうか。

 

俺の言葉を信じるな、と言う人には注意が必要かもしれないですね。

このような発言は、新興宗教の創始者が世俗的な一面を見せることで、もしくは占い師が自身は占いを信じないということで、ある種の超越性をアピールする行為と似ているかもしれません。

「俺の言葉を信じるな」による中立性の主張。それは、操ることはできるけど操られはしないぜ、という占い師の主張と大して変わらなかったりして。

わかりあえないことから 平田オリザ著

本屋で目に留まったので、「わかりあえないことから」(平田オリザ著)を買って読みました。

 

本のテーマは、”コミュニケーション能力”です。

 

社会においてコミュニケーション能力が必要だということは、よく言われますよね。

しかしながら、コミュニケーション能力と一言でいっても、その中身はぼんやりしていて、

「きちんと意見が言えること」

「空気を読むこと」

のように、社会の求めるコミュニケーション能力は、ダブルバインドの状態にあると筆者は指摘します。

 

コミュニケーション能力とは、本来、「異文化理解能力」であるそうです。

そうであるなら、何事も「最近の若者は〜」と非難を始めるオヤジたちのコミュニケーション能力は低いということですね。

 

筆者が言うように、今日の社会は以前と比べてコミュニケーションが多様化しています。

一昔前のように、社会の中央が存在したマスの時代では、同じような価値観や生活スタイルを多くの人が共有していました。

しかし、現在は、日本社会の中で人々は分断され、価値観や生活は様々になりました。

 

筆者は、「伝えたい」という気持ちは「伝わらない」という経験から生まれると言います。

私自身、イギリスで語学留学をしていたころ、そのフラストレーションが英語学習のモチベーションとなった経験があるので、納得できます。

ただ、現地で出会った日本人の方々の中には、「伝わらない」という経験が「あきらめ」に繋がったという方もいました。 

一概には言えませんが、日本での社会人生活が長い方に、その傾向が強かったと感じます。

 

であるからこそ、教育プロセスで異文化理解能力=コミュニケーション能力を学ぶことは、非常に大切だという筆者の主張は、なおさら説得力のあるものとなります。

問題が複雑であればあるほど人々は簡単な答えに飛びつきがちである、と先崎彰容さんがニッポンのジレンマでおっしゃっていたと思います。その原因には、多様なコミュニケーションが展開する今日において、コミュニケーション能力が不足していることが挙げられるのでしょう。

そしてそれは、若者に限定された能力不足ではないと感じます。多様なコミュニケーションに直面しているのが若者なのであり、それまで”察し合う文化”で育った日本人みんなに課された課題なのではないでしょうか。

 

他にも「会話」と「対話」における冗長率の違いや、日本語の世代・ジェンダー分けなど、実際のコミュニケーションにおける言語の特徴がこの本では語られており、身近に感じるからか、把握しやすく読むやすいです。

 

文化的な共有度が大きいからこそ、隣国同士の文化のずれが反発を生んでしまうという視点も非常に面白かったです。

揺るがない足場と寛容性:差別の対象の歴史(?)

多様性を担保するための寛容。健全なコミュニティを保つためによく言われることです。

一方で、コミュニティに帰属したいと思う気持ちは、他者(コミュニティ内部)との同一化を求めると同時に、他者(コミュニティ外部)との差異化を測るという点に起因するはずです。

その観点から言えば、自らが揺るぎないコミュニティ基盤を持つことによって、その下位のコミュニティ階層についてのみ寛容になれるのではないでしょうか。

例えば、日本人というアイデンティティは、一億総中流といわれた時代にはとても強いコミュニティであり得たかもしれません。それは、国として(社会民主主義的な)成長していたからでしょうが、現在、若者の雇用環境が逼迫していく中で、日本人であるということのアイデンティティは弱まりつつあると感じます。

その揺らぐ足場を強固にするために、外向きには近隣諸国への嫌悪、内向きには在日外国人への差別や生活保護を受ける人への冷酷な意見などが起きているように思います。

 

今、私たちにとって揺るがない足場とは何なのでしょうか?

人類であるということは、揺るがないアイデンティティ意識、コミュニティ意識になりえるでしょうか?

 

ところで、国家を超越したコミュニティ、つまり多様性に寛容なコミュニティの模索は失敗しました。共同体を「正当な暴力」を用いてまとめるために根本的な単位である国家を超えるコミュニティは、現実的ではありません。むしろ、正当な暴力を行使できるような国家の機能をうやむやにしたまま国際化が進んだせいで、国民としてのアイデンティティ意識が脆くなり、そして過剰な反発、感情的なナショナリズムが発生したのです。民族と国民の重なりが非常に大きいという原因も日本のケースではあるかもしれませんが。

この点は、萱野稔人さんの本に詳しいです。

 

私は、国民という足場を整えることが重要なのではないかと考えます。それは、国民というアイデンティティを「意識させない」、「意識する必要のない」環境を生みだすためです。

国民は、本来、開かれたコミュニティであるはずです。日本の場合は民族意識との混同が存在しているかもしれません。しかし、国民としての義務を果たしさえすれば、民族や宗教は問われません。

誰が国民であるのか。それは、排他的になるということではなく、今までぼんやりしていた国民という意識を明確にすることで、むしろ不毛な差別や排他主義をなくすことに繋がると思うのです。反対に、包括的になるのではないかと。

 

国家を超越すること、国民としてのアイデンティティを超越することは、とてつもなく難しそうです。いくらグローバル化が進んだとはいえ、国家という単位は今日においても基盤であることは変わりありません。最近だと、ロシアによる強行なクリミア編入に対して、各国の首脳が声明を発表することはできるものの、暴力を用いてロシアの動きを取り締まることはできません。世界警察は存在しないし、そのような振る舞いを見せていたアメリカには近頃特に強い反発が起きているのが現状です。

 

国家、国民の定義や制度設計をないがしろにしてそれらの超越をはかると、人々はコミュニティへの帰属意識が高まる、つまり他者との同一化・差異化を図りたいという欲望が強まるようです。

日本のネット上では今、差異化を図るために実体のない「俺たち」を着こなし、他者を叩くという運動がよく見られます。現実には、様々な個人が存在するはずなのに、雇用問題には正規雇用に対する「俺たち」、生活保護問題には生活保護を受給して(本来は決してそうではないが)楽をしているひとたちに対する「俺たち」、ネットで飲酒運転を宣言するバカたちに対する「俺たち」などなど。。。

まるで差異化を図るためのカウンターコミュニティ意識とでも呼ぶべき「俺たち」という実体なき主体がネット上に存在し、各個人が都合よく他者との差異を目的にダウンロードし、その都度即席の「俺たち」への同一化の満足を得ているかのよう。。

ポエムが美しさに埋没させるものたち

タイトルがポエムっぽいのですが。笑

 

先日、TBSラジオのLifeでポエム化をテーマにした回を聞いてました。非常に面白かったのです。

日本では、自己啓発的というか、ポエム的な言葉に依拠するのは、意識の高いビジネスマンではなく、むしろ追いつめられている側(例えば、社訓がポエムなブラック企業)であるというお話は、実感があるためかうなずきながら聞いていました。

 

強引に自分の関心ごとと絡めますと。。。

日本は世俗社会、無宗教社会といわれています。しかし、わかりやすく特定の宗教を信仰していないという点ではそうなのですが、宗教的なもの、生きる意味を与えてくれるものを、大衆は欲しているはずだと思います。

それは、新興宗教の勃興が示しているようですが、それだけではありません。そのような新興宗教をカルト的だと決めつけて毛嫌いしている一方で、お店のトイレに掛けられた説教くさい言葉や、日々目にするCMやドラマなどで頻繁に見られるポエム。このポエム化現象も、ある意味で特定の宗教倫理が働かないこの社会で、宗教的な役割を果たしているのではないでしょうか。

 

社会は不公平で、人生は不条理の連続です。そうじゃないと感じる方、あなたは相当運が良いんじゃないでしょうか。私は、弱冠20代前半ですが、今まさに、社会に出て行こうとする段階において、苦しんでおります。笑 

世の中甘くないですねえ。。。

 

ただ、これらの苦行はほとんど私自身の不徳の致すところによるものです。

この世界では、非常に残酷なことさえ起きます。

私とは比べ物にならないくらい優秀で、よりよい社会を作るために不可欠な人物が、不治の病にかかることがあるんです。

こんな時、例えば、神様を信じていたとしたら。治らない病は自らに与えられた試練だと捉え、自分の命を病の研究に捧げるたいと考えるかもしれません。また、病を宿命だと捉え、余生をポジティブに過ごすことができるかもしれません。

 

日本人の多くが(一神教における)神を信じていません。不治の病は少し極端な例ですが、例えば会社で不条理な目にあったとき、自己啓発本やスピリチュアルな本に勇気づけられることがあるかもしれません。もしくは、憂さ晴らしに飲みに行った先の居酒屋で見かけるポエムに励まされることがあるかもしれません。はたまた、愚痴を言いながら同僚と話している内容そのものがポエムのような人生論である可能性もあります。

物事の発生に意味があると、少し楽になるんですよね。生きることが。

決してそれは悪いことではない、というよりむしろ健康な精神状態を保つためには大切なことなのかもしれません。

そして、そのための一役を買っているのが、新興宗教であるとも言えるのではないでしょうか。新興宗教をアレルギー反応のように拒絶するばかりでは、1995年に起こった事件を忘却してしまうことと一緒になるのではないかと感じます。

 

ところで、昨日、「ダブリンの時計職人」という映画を見てきました。とても美しい映画です。というより、人生でおこること全てが美しいと感じさせる映画でした。薬に溺れるのも死ぬことも、好意を抱くこともその相手を失うことも。

映画というのは元来そういった性質を持つものなのでしょうが、強くポエム化を感じる作品でした。以下、印象に残ったセリフをひとつ抜粋です。

"Have you ever seen a leaf fall off the tree?"

"I... haven't."

"It's a beautiful thing."

日本国民

たまにテレビの討論番組見るんだけど、日本の政治とか社会問題が議論される中でよく耳にする「日本国民」。

 

日本国民とは、その言葉の定義上、日本国籍を持つ人のことを指すわけだけど、「日本国民」と日本人が口にする時、どうも定義上の意味と違うと感じることたまにあります。そこに、”日本民族”が含蓄されているように聞こえるのです。

 

日本は幸いにも(?)民族と国家の枠組みがほとんど一致しています。しかし、国家という概念が生まれた以上、それは成り立たちません。人種・民族に関係なく、日本国籍を保有する人はみんな日本人だからです。

 

 

金曜日の夜、バイトから帰ってテレビをつけたら朝生をやってて、ある学者が教育勅語復活について話していました。

まず、天皇とか戦前の教育って何より、ほとんど日本民族に親しみのあるもので、ちょークローズドなものだと思うんですよね。

やっと本腰入れて検討が始まった移民政策。その移民にとって、そういうものってすごくハードル高くないですか?

当然、移民は文化的背景や歴史を最低限知っておくべきでしょう。ただ、「日本民族としてどうこう」と「日本国民としてどうこう」は明確に区別するべきなんじゃないでしょうか。まあ、その二つを混同しているから、在日外国人の方々に今日においても相変わらず差別的な立場をとっているひとがいるんでしょうけど。

まあでも、リベラルの人達がそういうところをないがしろにして、国民とは誰をさすのか、誰が国民として社会保障を適用されるのかということを曖昧にしたようなので、それも現状の原因のひとつであると思いますが。

 

朝生では、道徳教育についても議論されていました。

ある政治家は、日本の道徳の教科書は、国・人種・民族を超えて普遍的に人間として身につけるべきことを教えるように作られているとおっしゃっていました。

もしそうであるなら、当然、日本人以外の様々な国や文化圏の人達の意見も組み込まれているんですよね?

もし日本人だけで作られたものなら、それは単に「日本人が考える」人類に普遍的な価値観であるに過ぎない。そりゃそれぞれの宗教や文化圏によって、「彼らの考える」人類に普遍的な価値観が存在するわけです。それの衝突が起こっても互いが折れないから、戦争が始まったりするのです。

それに、その政治家は、日本は特定の宗教に拠らない社会だから、むしろ日本の道徳は世界に誇れるものであるとかおっしゃっていました。はたして、本当でしょうか?

日本の生活や日本的な考え方には、仏教と儒教が強く影響しています。宗教儀式としてまったく意識していなくても、定期的にお墓参りをしたり、年上の人に敬語を使ったりしていますが、これは儒教の影響によるものです。

また、宗教を抜きにしても、長い間ほとんど同一民族で国が続いてきているのだから、その考え方や価値観は独特にならざるを得ないと思います。

 

僕の意見は、国・宗教・民族を超えた普遍的な価値観を教えることなんて難しいこと目指さずに、普遍的でない、それぞれの価値観をそれぞれの立場から教えられ、それについて議論する、という方がいいのではないかというものです。

あと、日本人の文化って素晴らしいし、日本人として誇りは年々つもって行く一方で、日本民族と日本国民の混合はそろそろなくなるべきで、もっとオープンな日本国民のあり方が出てくるべきなのではないか、と思います。それでいうと、アメリカの「自由!民主主義!」なんて雰囲気は、非常にオープンな国民意識ですよね。まあ、そのようにして作られた国だから、ってことが大きいんでしょうけど。。

「話聞いてあげるよ」

先日、進路や人生についてぼやいていると、「話聞いてやるよ」という言葉を頂き、ほとんど初対面の人と飲みに行ってきました。

 

ただ、ふたを開けてみると、まあ当然なんですけど、彼は僕の話なんて正直あまり興味ないんですね。

「話聞いてあげるよ」と言われていざ話し始めると、自分らしさや持論を披露され、その人が満足する機会にされてしまうことが多々ある。

というよりも、「話聞いてあげるよ」って「俺の話でも聞けよ」ということなのか!?

 

ただ、それでも「話聞いてあげるよ」という呪文にかかってあげて、その人の持論を我慢強く聞くということも、いや、それこそが重要なのではないかと思うのです。

 

自分の読みたいことがその通りに書いてある本ばかり読んでる人って相当危ないですよね。嫌韓本とかその類いだと思うんですけど。

耳に心地よいことばかり聞くことの不安さって凄まじくて、耳に心地よくないことを聞くことの快感というか、健全性というか、そういうものを感じられるようになるべきなんじゃないでしょうか。

何より、実際に有意義な時間になることも多々あって、「聞く」という感覚が鍛えられるような気がします。

 

要するに、ぬるいビオトープで生きて行くことが容易になってきている時代で(、まあマッチョじゃなきゃ社交できない時代と比べるとだいぶマシなんだろうけど)、少しくらいは生命力を鍛える機会として、コンフォートゾーンから一歩でて外部との接触を試みる機会として、「話聞いてあげるよ」についていく価値はあるんじゃないか、ということです。

ぬるい空間で生きていきたいんですけどね。。