揺るがない足場と寛容性:差別の対象の歴史(?)

多様性を担保するための寛容。健全なコミュニティを保つためによく言われることです。

一方で、コミュニティに帰属したいと思う気持ちは、他者(コミュニティ内部)との同一化を求めると同時に、他者(コミュニティ外部)との差異化を測るという点に起因するはずです。

その観点から言えば、自らが揺るぎないコミュニティ基盤を持つことによって、その下位のコミュニティ階層についてのみ寛容になれるのではないでしょうか。

例えば、日本人というアイデンティティは、一億総中流といわれた時代にはとても強いコミュニティであり得たかもしれません。それは、国として(社会民主主義的な)成長していたからでしょうが、現在、若者の雇用環境が逼迫していく中で、日本人であるということのアイデンティティは弱まりつつあると感じます。

その揺らぐ足場を強固にするために、外向きには近隣諸国への嫌悪、内向きには在日外国人への差別や生活保護を受ける人への冷酷な意見などが起きているように思います。

 

今、私たちにとって揺るがない足場とは何なのでしょうか?

人類であるということは、揺るがないアイデンティティ意識、コミュニティ意識になりえるでしょうか?

 

ところで、国家を超越したコミュニティ、つまり多様性に寛容なコミュニティの模索は失敗しました。共同体を「正当な暴力」を用いてまとめるために根本的な単位である国家を超えるコミュニティは、現実的ではありません。むしろ、正当な暴力を行使できるような国家の機能をうやむやにしたまま国際化が進んだせいで、国民としてのアイデンティティ意識が脆くなり、そして過剰な反発、感情的なナショナリズムが発生したのです。民族と国民の重なりが非常に大きいという原因も日本のケースではあるかもしれませんが。

この点は、萱野稔人さんの本に詳しいです。

 

私は、国民という足場を整えることが重要なのではないかと考えます。それは、国民というアイデンティティを「意識させない」、「意識する必要のない」環境を生みだすためです。

国民は、本来、開かれたコミュニティであるはずです。日本の場合は民族意識との混同が存在しているかもしれません。しかし、国民としての義務を果たしさえすれば、民族や宗教は問われません。

誰が国民であるのか。それは、排他的になるということではなく、今までぼんやりしていた国民という意識を明確にすることで、むしろ不毛な差別や排他主義をなくすことに繋がると思うのです。反対に、包括的になるのではないかと。

 

国家を超越すること、国民としてのアイデンティティを超越することは、とてつもなく難しそうです。いくらグローバル化が進んだとはいえ、国家という単位は今日においても基盤であることは変わりありません。最近だと、ロシアによる強行なクリミア編入に対して、各国の首脳が声明を発表することはできるものの、暴力を用いてロシアの動きを取り締まることはできません。世界警察は存在しないし、そのような振る舞いを見せていたアメリカには近頃特に強い反発が起きているのが現状です。

 

国家、国民の定義や制度設計をないがしろにしてそれらの超越をはかると、人々はコミュニティへの帰属意識が高まる、つまり他者との同一化・差異化を図りたいという欲望が強まるようです。

日本のネット上では今、差異化を図るために実体のない「俺たち」を着こなし、他者を叩くという運動がよく見られます。現実には、様々な個人が存在するはずなのに、雇用問題には正規雇用に対する「俺たち」、生活保護問題には生活保護を受給して(本来は決してそうではないが)楽をしているひとたちに対する「俺たち」、ネットで飲酒運転を宣言するバカたちに対する「俺たち」などなど。。。

まるで差異化を図るためのカウンターコミュニティ意識とでも呼ぶべき「俺たち」という実体なき主体がネット上に存在し、各個人が都合よく他者との差異を目的にダウンロードし、その都度即席の「俺たち」への同一化の満足を得ているかのよう。。