俺の言うことを信じるな(、と言う俺のことを信じろ)。

 

マスコミの報道を信じてはいけません。そして、私の言うことすらも疑ってください(、と言う私の言葉を信じなさい)。

 

原発事故直後から、疑惑の残るマスコミ報道と対照化を図ろうとして、このような発言をする「ジャーナリスト」が結構現れたと思います。

 

ただ、この発言、ジャーナリストの発言として、どうなんでしょうね。

何かに対して賛否どちらかの明確な立場をとって主張をすることは、特に情報の公開が制限されていたり、歴史が浅く先の展開が読めなかったりする事項・問題においては、とてもリスキーなことだと思います。

そのような状況にあって、「賛否の決断を下し得ない」と言うことは、とても正直だと感じます。賛否両方の立場からの見解に試みることも、真面目な姿勢だなと見受けるでしょう。

また、正誤に関わらず、賛否どちらかの立場を表明し意見を述べることも、ある種誠実な態度と言えるのではないでしょうか。間違っているにしろ、強い逆風に向かって声を上げるということは、とてつもない熱量を必要とするはずです。

 

一方で、発生している問題ではなく、その問題にまつわる情報の信憑性を批判することは、上述のような態度と性質が異なるのではないでしょうか。

 

溢れるほどの情報の中には宝のような情報からゴミのようなものまであります。また。このご時世においても、原発事故の時のように1次情報に欠ける事態が起きることもあるのです。

そんな中で、必要とされることは、「主張すること」ではないでしょうか。

限られた情報の中で立場を決めて主張すること。情報が不十分で明確な立場を決められない、という主張すること。これらは、後に正誤がはっきりするし、誤っていたとしても主張に至った経緯を知ることは大切なのではないかと思います。

しかしながら、報道を信じず、相手の主張を信じるな(、と言う俺を信じろ)という主張(?)は、有益なことを残すでしょうか?残すのは「みんな知らないみたいだけど、俺は知っている」と幻想する陰謀論者くらいでしょうか。

 

俺の言葉を信じるな、と言う人には注意が必要かもしれないですね。

このような発言は、新興宗教の創始者が世俗的な一面を見せることで、もしくは占い師が自身は占いを信じないということで、ある種の超越性をアピールする行為と似ているかもしれません。

「俺の言葉を信じるな」による中立性の主張。それは、操ることはできるけど操られはしないぜ、という占い師の主張と大して変わらなかったりして。