日本国民

たまにテレビの討論番組見るんだけど、日本の政治とか社会問題が議論される中でよく耳にする「日本国民」。

 

日本国民とは、その言葉の定義上、日本国籍を持つ人のことを指すわけだけど、「日本国民」と日本人が口にする時、どうも定義上の意味と違うと感じることたまにあります。そこに、”日本民族”が含蓄されているように聞こえるのです。

 

日本は幸いにも(?)民族と国家の枠組みがほとんど一致しています。しかし、国家という概念が生まれた以上、それは成り立たちません。人種・民族に関係なく、日本国籍を保有する人はみんな日本人だからです。

 

 

金曜日の夜、バイトから帰ってテレビをつけたら朝生をやってて、ある学者が教育勅語復活について話していました。

まず、天皇とか戦前の教育って何より、ほとんど日本民族に親しみのあるもので、ちょークローズドなものだと思うんですよね。

やっと本腰入れて検討が始まった移民政策。その移民にとって、そういうものってすごくハードル高くないですか?

当然、移民は文化的背景や歴史を最低限知っておくべきでしょう。ただ、「日本民族としてどうこう」と「日本国民としてどうこう」は明確に区別するべきなんじゃないでしょうか。まあ、その二つを混同しているから、在日外国人の方々に今日においても相変わらず差別的な立場をとっているひとがいるんでしょうけど。

まあでも、リベラルの人達がそういうところをないがしろにして、国民とは誰をさすのか、誰が国民として社会保障を適用されるのかということを曖昧にしたようなので、それも現状の原因のひとつであると思いますが。

 

朝生では、道徳教育についても議論されていました。

ある政治家は、日本の道徳の教科書は、国・人種・民族を超えて普遍的に人間として身につけるべきことを教えるように作られているとおっしゃっていました。

もしそうであるなら、当然、日本人以外の様々な国や文化圏の人達の意見も組み込まれているんですよね?

もし日本人だけで作られたものなら、それは単に「日本人が考える」人類に普遍的な価値観であるに過ぎない。そりゃそれぞれの宗教や文化圏によって、「彼らの考える」人類に普遍的な価値観が存在するわけです。それの衝突が起こっても互いが折れないから、戦争が始まったりするのです。

それに、その政治家は、日本は特定の宗教に拠らない社会だから、むしろ日本の道徳は世界に誇れるものであるとかおっしゃっていました。はたして、本当でしょうか?

日本の生活や日本的な考え方には、仏教と儒教が強く影響しています。宗教儀式としてまったく意識していなくても、定期的にお墓参りをしたり、年上の人に敬語を使ったりしていますが、これは儒教の影響によるものです。

また、宗教を抜きにしても、長い間ほとんど同一民族で国が続いてきているのだから、その考え方や価値観は独特にならざるを得ないと思います。

 

僕の意見は、国・宗教・民族を超えた普遍的な価値観を教えることなんて難しいこと目指さずに、普遍的でない、それぞれの価値観をそれぞれの立場から教えられ、それについて議論する、という方がいいのではないかというものです。

あと、日本人の文化って素晴らしいし、日本人として誇りは年々つもって行く一方で、日本民族と日本国民の混合はそろそろなくなるべきで、もっとオープンな日本国民のあり方が出てくるべきなのではないか、と思います。それでいうと、アメリカの「自由!民主主義!」なんて雰囲気は、非常にオープンな国民意識ですよね。まあ、そのようにして作られた国だから、ってことが大きいんでしょうけど。。